画家としての才能が
世間に認めらて気儘に自然観察出来る自分の眼の見る自然と、それを逸らしようもなく農耕に繋がれ続ける百姓一般の眼の見る自然が、人間の心身相関の理法に従い、本質的な差異を来してしまうことが、この人福田平八郎は終ぞ気づけなかったらしい。画家であることと百姓であることを兼ね備えること、或いは最低、百姓の心と呼応する画家であること、は難しい。何しろ、自分の一部特権生活者として眼が観察する自然を、同じ人間そして、普通の人間ヘと普遍性のあるもの、であるかのように提出して社会を晦ますことは、決して許されず、またこの現在でも許されないことな筈である!
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