親に強いられた生活を
受け入れ十数年もすれば、多くは、自我を自覚し、自我の内容を自覚し、経過して来た日常を問い、取り囲む自然を問う気になるであろう。その時、思考、想像、決断意志、感情、等、自我内容を、そのように自我である自我が先に自己創造した、その多数自我が取り結ぶ日常の過程を自我が先に自己創造した、取り囲む自然を自我が先に自己創造した、という直覚より、自我を超える者がそれらを創造したという直覚の方が、確からしく思われるであろう。これが、神への信仰心の基礎となる。 然るに神の創造した諸存在へと、人間自我の不満心も、人間自我の内部に確かに現象しており、それについてはそれを神由来と言うことは出来ない、というのがより厳密な分析であり、正にその心を膨化させた者の達の存在を、自分は全世界に告知して来たのであった!
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